ベトナムの社会主義市場経済
論理矛盾をどう克服していく?
揺らぐ外資政策/侮れないナショナリズム
鈴江康二(現代ベトナム研究所)
1986年12月の共産党第6回党大会で採択されたドイモイ(刷新)路線が実り、近年になって遅れ馳せながらも域内諸国に追いつきつつあるベトナム――。しかし、中国同様に社会主義と市場経済を並存させるという論理矛盾を、どうやって克服していくか、その取り組みはいま始まったばかりだ。
★党員ビジネスの公認
ベトナム共産党は2002年になって初めて、党員によるビジネスを公認した。実態としては、党の高級幹部から末端までが、家族名義で大なり小なりのビジネスを展開しており、それを公式に追認したわけだ。これまで度々議論されてきたにもかかわらず、先送りされてきた議題であった。
周知のようにマルクス=レーニン主義では、生産手段の私的所有は搾取をもたらすものとして排斥されてきた。ベトナム共産党も同様のスタンスを取り、国営セクターこそ社会主義の王道であるとする立場を貫いてきた。しかし、国際的に孤立を深めた80年代にあって、党員も食うために自宅を喫茶店や食堂にしたりして小商いに励まざるを得なかった。運良く海外勤務につけた者は、現地で衣類やバイク、自転車を買いつけて、ベトナムで売りさばいた。バオカップと呼ばれた配給制だけに頼っては生きていけなかったからだ。
この時代の私営はまだビジネスと呼べるものではなかった。本格的な党員ビジネスは、90年代に入って巨額の外資が流入する中で、党や役所の許認可権が「ドルに化ける」ことを知った党員幹部が登場してからである。彼らの多くは、子供や孫を有力な外資合弁企業に送り込み、片方で利権を駆使して企業を起こし一族の利益をプールした。高級幹部の子弟からなるベトナム版「太子党」も、中国同様に現れた。
★私営セクターの増大
党員ビジネスや太子党がネポティズム(縁故主義)に基づいたものであるのに対して、南部ホーチミン市(旧名サイゴン)を中心に近年、非党員による私営セクターが活発化してきた。これは2000年に公布された新企業法によって、誰でもが会社を設立する権利を認められたことによる。また、土地の自由な売買が解禁されたことも、それを担保として資金調達できる点でこれを大きく後押しした。そしてより重要なのは、南ベトナム時代に寄生的な援助経済ではあったものの、曲がりなりにも洗礼を受けた資本主義経験が、官に頼らない民の活動を南部で促進した。大量のドルが海外に住む越僑から流れ込んだことも重要なファクターとなった。
現在、ベトナムのGDPに占める私営セクターの比重は年々増しており、巨額の補助金を注いでも赤字を垂れ流す国営企業と明暗を分けている。中国共産党は2002年11月の党大会で、私営企業家の入党を公認したが、ベトナムでも同じ路線が採用されるのは時間の問題だろう。
東西冷戦が終焉し、マルクス=レーニン主義の破たんにより、中国もベトナムも、党が生き延びるために「愛国精神」を前面に押し出している。「独立を勝ち取った前衛」であることを強調し、国民統合の求心力をかろうじて保とうという戦略である。したがって、国家の隆盛に貢献する「先進的で愛国的な」私営企業家が共産党に入党しても、道義的には何ら問題がないというわけだ。逆に、これら伸長著しい私営企業家を取り込みそこねた場合、国家の安定に非常な脅威となることを恐れている。
★中国モデルへの親近感
次代のホープと言われるグエン・タン・ズン副首相は、ベトナムの発展戦略にとって「中国モデルがもっともふさわしい」と述べている。
近年こそ良好な関係にあるベトナムと中国だが、1979年には中国人民解放軍が国境を越え、ベトナム北部の町を破壊した。ベトナム軍のカンボジア進攻に対する「懲罰である」と、ケ小平は滞在先の東京で言い放った。
断絶状態が改善されたのは1991年のことである。それ以降両国は国境貿易を活発化させるとともに、領土・領海線の画定作業に力を入れてきた。残るは中越以外の国も領有権を主張するスプラトリー(漢字名・南沙)、パラセル(同・西沙)の両諸島だけである。
実はベトナム国内では、この国境画定作業において中国に対する姿勢が甘すぎた、と共産党ならびに政府を批判する人々も存在する。インターネットを利用してこのような見解を公表したばかりに、逮捕された若者にさきごろ実刑判決が下った。
それはさておき、ベトナム共産党にとっては、中国だけが社会主義と市場経済という相矛盾する原理・体制を一つの社会に具現させてきた唯一の国家であり、一党独裁の維持を至上命題とするベトナム共産党のモデルとなっている。
国交正常化後、歴代書記長は北京入りを欠かさず、中国側からも江沢民や李鵬、胡錦濤といった実力者がハノイを訪問している。中国にしてみれば、インドシナ3国(ベトナム、カンボジア、ラオス)とミャンマーという域内後進国を、対ASEAN政策の橋頭堡にし、雲南など内陸部開発に必要な巨大マーケットに仕立てたいわけだ。
★「猫の目」外資導入政策
主に新古典派経済学に支えられた「自由貿易」を旨とする市場経済体制にとって、カネ・ヒト・モノの流れの自由化こそが目指されなければならない。そのような文脈にしたがって戦後のガット体制が始まり、いまWTO(世界貿易機構)に発展的に改組された。
ベトナムもまた中国同様に、この流れは避けられないものとして考えている。またASEAN域内での経済統合にも前向きである。しかし一旦国内を見渡せば、赤字を垂れ流す国営企業の再編成は守旧勢力の抵抗にあい遅々として進まず、失業者を吸収するためのセーフティーネットとして、私営セクターの雇用力も未熟である。このような中で国際競争力をもった自国産業を育成していくのは至難の技である。そのジレンマが時として、外資に対する突発的な反動として現れる時がある。
周知のように、2002年9月ベトナム政府は自動二輪メーカーへの輸入部品割り当て制限を突如課した。そのため、ホンダ、ヤマハ発動機の現地企業は一時生産を停止せざるをえない事態に陥った。
この突然の規制について、ベトナム政府は増加する交通死亡事故や悪化する大気汚染をにらみ、一説では国内に1千万台(ちなみにベトナムの人口は8千万)あるというバイクの氾濫に歯止めをかけたいという、もっともな理由を挙げている。
しかし日本側は、さらなる国内部品調達率アップを促す自国産業保護政策であるとして、官民で反発を強めている。一時中国製のコピー商品に押されたホンダは低価格バイクを売り出したばかり、ヤマハも増産に意欲をみせていたところだった。
当初の日系企業への割り当て数は見直されて、工場の生産は再開されたが、90年代初頭の4輪自動車産業の誘致時に、ベトナム側がとった我田引水的手法が思い出された。
ファン・バン・カイ首相はハノイで日本からの記者団の質問に答えて、「投資に影響するような大した問題ではない」と延べ、バイクの新規登録制限にも言及した。
改革派で知られるカイ首相だが、彼とて保守派、軍、公安といった様々な勢力の均衡、入り混じった利権の上で、政治力を行使せざるをえない事情がある。この10年でベトナム国内市場は外資製品に食い荒らされた、そんな意見を持つ人も案外と多い。とりわけ安価ではあるが耐久性に乏しい中国製品の洪水に反発する声が強い。したがって、このような感情を「排外主義」に誘導しないような配慮も、外資の側に求められている。輸出志向型投資はまだしも、ベトナム市場を対象にした投資には忍耐力が必要である。短期的に「儲かればいい」「売れればいい」といった態度だけでは続かない。政治的にも経済的にも、ベトナム人の深奥にある強固なナショナリズムを決して侮ってはならない。
(本稿はサンラ出版が発行する雑誌「力の意志」2003年1月号に掲載したものです)